ボクの大好きな先生 [音楽]
今日、3月23日はボクの親父の5回目の命日でした。
朝からお寺様が見えられて、お経をあげていただいたんだけど、もう5年も経つんですね。
ホントに早いものです。
でも、今回はそのお話ではありません ^^;
今年もまた3月22日がやってきました。
この日は、ボクの大好きだった歌の先生の命日なんです。
その方のお名前は小山孝さん、東京生まれの東京育ちだったと記憶していますが、詳しくは知りません。
ボク達みたいなアマチュアに歌を教えてくださる声楽家の方で、西暦2000年5月15日の夜に知り合いに
なりました。
西暦2000年というと、確か2千円札が発行された年で、沖縄サミットがあった年だったと記憶しています。
その沖縄サミットと同じ場所、沖縄は那覇市で初めてお話をさせていただきました。
お話といっても、その内容は大したものではありませんでした。でも、そのことがきっかけとなり、その年の
ボク達の音楽団体の夏の合宿の講師として来ていただくこととなりました。
みんなを煽って乗せているのはボクです ^^;
2000年ですから、約14年前のボクです。今ほどお腹も出ていないし、おでこも今よりはかなり狭いです。
みんなで はい、チーズ
これは2003年の写真ですね。
メンバーひとりひとりの歌を聞き、その人に合った発声法を教えてくださいました。別にいつも髪を引っ張って
歌えというのではありません。身体中の力の入れ方を体感させて下さっています。
この人は腹筋に力を入れるようなイメージを…
この小山さんって方は、元々東京は銀巴里というお店で歌うプロの歌手だったそうです。
ボクは行ったことがないので分かりませんが、このお店で歌うというのはかなり大変だったようで、並の
レコード歌手では絶対に歌うことは出来ないお店だったと聞いたことがあります。
そんなお店の客層に嫌気がさした小山さんは、高いシャンパンがどんどん注文されるお店より、安い
チューハイをみんなで呑むような人たちの中に入って歌いたいと願うようになったそうです。
そんな小山さんが選んだのが、ボク達の音楽団体だったんです。
小山さんと知り合うまで、ボクは音楽が好きだけど嫌いでした。
変な言い回しですが、どこで歌えと言われても、ある程度は歌える自信を持っていたんです。
でも、毎年夏の合宿にお見えになられる先生は、プロの指揮者の方で、ボク達にもそこそこのレベルの
歌を求められます。
そんな中でもボクはいつも指名されて特訓を受けましたが、その特訓がキツかった…
みんなの前で延々と一人で声を出させられて、『そうじゃない、もっとこう』『違う』などと言われ続ける時間を
過ごしました。
ただ、それは他の仲間からも羨ましがられるくらいの、いわゆる『愛のムチ』だったらしいんです。
それは頭では解っているけど、それでもボクはイヤでした。もっと気楽に、他の人たちみたいに笑いながら歌を
歌いたいということばかり考えていました。
その先生が日程的に都合が悪くなった時に、ボクは代役として小山さんに講師をお願いしたんです。
小山さんの指導は、それはそれはボクの理想の内容でした。
『皆さんはプロではないんだから、私は皆さんにそんな高いレベルを求めるつもりはありません。皆さんの
ありのままの声を出してもらい、それを使っていかにステキな合唱を作るかが私の仕事です。』と言って、
ボク達の素人の声でも褒めてくださいました。
より高度な音楽を求める人には甘いと感じられたかもしれないけれど、ボク達の団体にそんな人は一人も
いませんでした。
その証拠に、参加者は毎年増え続けたのです。
その小山さんがおっしゃられた言葉があって、ボクはその言葉が大好きなんです。
『音を楽しむから音楽なのであって、音楽のために苦しい思いをする必要はないですよ。音が苦(おんがく)に
なってはいけないんです。』
もちろん、プロは別として…ですけどね
この言葉をボクは忘れることはないと思います。
その小山さんが歌われる歌で、喜瀬武原(キセンバル)というのがあります。喜瀬武原とは、沖縄は
恩納村?金武町???にある村の名前なんですが、沖縄本島の県道104号線を封鎖して行われた米軍の
実弾射撃訓練に対して『自分たちの故郷を守れ』との想いで山の中に立て籠もった村人たちの戦いの歌と
聞いています。海勢頭豊さんという方が作られました。
小山さん以外にも、たくさんの方々が歌われているんですが、初めて小山さんが歌う喜瀬武原を聞いた時、
ボクは震えました。そして小山さんの大ファンになりました。
ボクは喜瀬武原には2006年1月に初めて行ったんですが、菊の花の栽培が盛んで、ホントに自然豊かな
素晴らしいところでした。
自分たちの故郷が、実弾演習なんかでめちゃめちゃにされたら、誰でもイヤですよね。
小山さんには、2000年から2003年までの4年間お世話になりました。
ホントはもっともっと音楽を教えてほしかったんだけど、残念ながら2004年の3月22日にお亡くなりになって
しまわれたんです。
ホントに泣きました。
東京までお葬式にも行ってきました。
そして、お世話になった4年間の合宿の内容をまとめたDVDを出しました。
上の2枚は、そのDVDのジャケットなんだけど、1枚目のは北陸ブロックのメンバーの似顔絵なんです。
ボクは小山先生の下に描かれているんだけど、その絵が今のボクのブログの顔になっています。
この絵もボクの一生の宝物です。
いつものことながら話が二転三転してしまっています。すみません。
そのDVDから、小山さんが歌われた喜瀬武原を初めてYou tubeにアップしたんだけど、果たして上手く
出来ているかどうか (^^;
小山 孝 喜瀬武原
今回も長々とすみません。
父親の命日なのに、それ以外の方のことを書くのもいかがなものかとも思ったんだけど、ちょうど10年が
経ったので敢えてボクの音楽の思い出として書きました (^^)
朝からお寺様が見えられて、お経をあげていただいたんだけど、もう5年も経つんですね。
ホントに早いものです。
でも、今回はそのお話ではありません ^^;
今年もまた3月22日がやってきました。
この日は、ボクの大好きだった歌の先生の命日なんです。
その方のお名前は小山孝さん、東京生まれの東京育ちだったと記憶していますが、詳しくは知りません。
ボク達みたいなアマチュアに歌を教えてくださる声楽家の方で、西暦2000年5月15日の夜に知り合いに
なりました。
西暦2000年というと、確か2千円札が発行された年で、沖縄サミットがあった年だったと記憶しています。
その沖縄サミットと同じ場所、沖縄は那覇市で初めてお話をさせていただきました。
お話といっても、その内容は大したものではありませんでした。でも、そのことがきっかけとなり、その年の
ボク達の音楽団体の夏の合宿の講師として来ていただくこととなりました。
みんなを煽って乗せているのはボクです ^^;
2000年ですから、約14年前のボクです。今ほどお腹も出ていないし、おでこも今よりはかなり狭いです。
みんなで はい、チーズ
これは2003年の写真ですね。
メンバーひとりひとりの歌を聞き、その人に合った発声法を教えてくださいました。別にいつも髪を引っ張って
歌えというのではありません。身体中の力の入れ方を体感させて下さっています。
この人は腹筋に力を入れるようなイメージを…
この小山さんって方は、元々東京は銀巴里というお店で歌うプロの歌手だったそうです。
ボクは行ったことがないので分かりませんが、このお店で歌うというのはかなり大変だったようで、並の
レコード歌手では絶対に歌うことは出来ないお店だったと聞いたことがあります。
そんなお店の客層に嫌気がさした小山さんは、高いシャンパンがどんどん注文されるお店より、安い
チューハイをみんなで呑むような人たちの中に入って歌いたいと願うようになったそうです。
そんな小山さんが選んだのが、ボク達の音楽団体だったんです。
小山さんと知り合うまで、ボクは音楽が好きだけど嫌いでした。
変な言い回しですが、どこで歌えと言われても、ある程度は歌える自信を持っていたんです。
でも、毎年夏の合宿にお見えになられる先生は、プロの指揮者の方で、ボク達にもそこそこのレベルの
歌を求められます。
そんな中でもボクはいつも指名されて特訓を受けましたが、その特訓がキツかった…
みんなの前で延々と一人で声を出させられて、『そうじゃない、もっとこう』『違う』などと言われ続ける時間を
過ごしました。
ただ、それは他の仲間からも羨ましがられるくらいの、いわゆる『愛のムチ』だったらしいんです。
それは頭では解っているけど、それでもボクはイヤでした。もっと気楽に、他の人たちみたいに笑いながら歌を
歌いたいということばかり考えていました。
その先生が日程的に都合が悪くなった時に、ボクは代役として小山さんに講師をお願いしたんです。
小山さんの指導は、それはそれはボクの理想の内容でした。
『皆さんはプロではないんだから、私は皆さんにそんな高いレベルを求めるつもりはありません。皆さんの
ありのままの声を出してもらい、それを使っていかにステキな合唱を作るかが私の仕事です。』と言って、
ボク達の素人の声でも褒めてくださいました。
より高度な音楽を求める人には甘いと感じられたかもしれないけれど、ボク達の団体にそんな人は一人も
いませんでした。
その証拠に、参加者は毎年増え続けたのです。
その小山さんがおっしゃられた言葉があって、ボクはその言葉が大好きなんです。
『音を楽しむから音楽なのであって、音楽のために苦しい思いをする必要はないですよ。音が苦(おんがく)に
なってはいけないんです。』
もちろん、プロは別として…ですけどね
この言葉をボクは忘れることはないと思います。
その小山さんが歌われる歌で、喜瀬武原(キセンバル)というのがあります。喜瀬武原とは、沖縄は
恩納村?金武町???にある村の名前なんですが、沖縄本島の県道104号線を封鎖して行われた米軍の
実弾射撃訓練に対して『自分たちの故郷を守れ』との想いで山の中に立て籠もった村人たちの戦いの歌と
聞いています。海勢頭豊さんという方が作られました。
小山さん以外にも、たくさんの方々が歌われているんですが、初めて小山さんが歌う喜瀬武原を聞いた時、
ボクは震えました。そして小山さんの大ファンになりました。
ボクは喜瀬武原には2006年1月に初めて行ったんですが、菊の花の栽培が盛んで、ホントに自然豊かな
素晴らしいところでした。
自分たちの故郷が、実弾演習なんかでめちゃめちゃにされたら、誰でもイヤですよね。
小山さんには、2000年から2003年までの4年間お世話になりました。
ホントはもっともっと音楽を教えてほしかったんだけど、残念ながら2004年の3月22日にお亡くなりになって
しまわれたんです。
ホントに泣きました。
東京までお葬式にも行ってきました。
そして、お世話になった4年間の合宿の内容をまとめたDVDを出しました。
上の2枚は、そのDVDのジャケットなんだけど、1枚目のは北陸ブロックのメンバーの似顔絵なんです。
ボクは小山先生の下に描かれているんだけど、その絵が今のボクのブログの顔になっています。
この絵もボクの一生の宝物です。
いつものことながら話が二転三転してしまっています。すみません。
そのDVDから、小山さんが歌われた喜瀬武原を初めてYou tubeにアップしたんだけど、果たして上手く
出来ているかどうか (^^;
小山 孝 喜瀬武原
今回も長々とすみません。
父親の命日なのに、それ以外の方のことを書くのもいかがなものかとも思ったんだけど、ちょうど10年が
経ったので敢えてボクの音楽の思い出として書きました (^^)
お父さまの訃報を伺ったのは、つい先日のことのようなのに、もう5年ですか。
それからですよね、なかチャンが農作業も担われるようになったのは。
東京のそのお店、名前は聞いたことあります。シャンソンが主体だったと思うけど。
先生とのめぐり会い、これもご縁ですねぇ。沖縄の歌もチャンと聴けましたよ。懐の深い先生って感じです。残念でしたねぇ、まだ、お若かったでしょうに。
でも、しっかりと受け継がれてます、なかチャンたちに。喜んでおられるでしょう。
by okko (2014-03-24 10:51)
こんばんは^^)
素敵な しかし哀しい思い出ですね。。。
でも小山先生の魂が皆さんの胸の中に
ずっと生き続けていらっしゃるのですね☆
得難いご経験と感動を 勝手ながら
お裾分けして頂いたような気持ちになりました^^)
by 獏 (2014-03-24 20:06)
あのアイコン、何か特別な想いを感じていましたが・・・なるほど
なかちゃんの大切な想いの詰まったイラストだったのですね
by さる1号 (2014-03-24 20:56)
なかちゃんの人生って普通人の2倍も3倍も濃いですね~しみじみ考えさせられます・・・
朝ドラの<ごちそうさん>ももうすぐ終わりますが、はたして ♪♬カネモチなれるや~~耳悪い?
by OJJ (2014-03-24 21:17)
素敵な師との出会いだったんですね~。いつまでも心の中にいらっしゃいますね^^
なかちゃんが当ブログでコメントしてくださった「音が苦にならないように」とは、この師のお言葉だったとは!大切なお言葉をコメントに頂き、ありがとうございました。
喜瀬武原、小山さんも歌ってくださっていたんですね。ありがたいことです。
by Rinko (2014-03-25 07:31)
恩師の墓参りは毎年行っております。
今年は父親の3回忌だな・・・
by たいへー (2014-03-25 07:36)
なかちゃんだけひときわ目立ってるような気が・・・
by koto (2014-03-25 11:25)
最近夢中になれるものがない自分に気づきました。
一抹の寂しさを感じます。
by U3 (2014-03-26 12:24)
お父様が亡くなって、もう5年ですか。
月日が経つのは早いものですね。
なかちゃんも、嫌だ嫌だと言いながらも、
米作りの家長として、年季がはいってきたことでしょう(^^)
小山さん、こんなに声量のある方が4年後に亡くなるなんて……。
仲間のみなさん、さぞ嘆かれたことでしょうね。
14年前のなかちゃん、今より目がギョロッとしてる?
黒いシャツといい、なかなか迫力があります!
by ぐーちゃん (2014-03-26 17:12)
♪ご来訪くださいました皆さま、コメントありがとうございました ^^
♪okkoさん、こんにちは ^^
そうですね、もう丸5年が経ってしまいました。ホントに早いものです。
その時から農作業は、すべて自分の責任となりました。
東京は銀座の名店『銀巴里』、確かにシャンソンのお店だったみたいですね。
ただ、ボク達ではとても入ることの出来ないようなお店だったとも聞きます ^^;
この小山先生と出会ってなかったら、ボクの音楽も単なる自己満足だけで終わってしまい、
誰かを楽しませようというところまではいかなかったと思います。
ホントにステキなご縁をいただきました (^^)
♪獏さん、こんにちは ^^
ホントにステキな想い出です。今でもメンバーが揃うと、小山さんに指導していただいた
歌が自然と出てきます。4月にはステージで喜瀬武原を歌うんですよ。
果してうまく歌えるかどうか…ですが、楽しむことは出来ると思います ^^;
♪さる1号さん、こんにちは ^^
はい、ボクにとっては最高にして唯一の似顔絵なんです。
想い出は山ほど詰まっていますよ (^^)
♪OJJさん、こんにちは ^^
ボクの人生は…少し濃いかもしれませんね。いろいろと経験をさせていただきました。
ただ、それを上手く人生に行かせているかどうかは???です ^^;
『ごちそうさん』は、ボクも大好きです (^^)
♪Rinkoさん、こんにちは ^^
はい、小山さんはいつもボク達メンバーと一緒に歌ってくださっています。
先日Rinkoさんの記事にコメントさせていただいたとき、『なんてタイミングなんだ…』と
思いました。ホントにボクの大好きな言葉なんです。
喜瀬武原は、4月にボク達もステージで歌います。心を込めて歌います (^^;
♪たいへーさん、こんにちは ^^
ボクも小山さんの墓参りに行きたいです。
場所は分からんけど、今度東京に行ったらご家族に連絡してみます (^^)
♪kotoさん、こんにちは ^^
この合宿の時はホントに嬉しくて燥いでしまってたので、かなり目立っていたと思います。
それ以来ずっと目立ってます (^^;
♪U3さん、こんにちは ^^
ボクもこの素人音楽を除けば何もありません ^^;
♪ぐーちゃんさん、こんにちは ^^
はい、親父がなくなってもう丸5年が経ちました。ホントに早いものです。
農作業は嫌だけど、これが無くなると反対に淋しいかもしれません。我儘ですね ^^;
小山さんの訃報はホントに突然だったものだから、みんなビックリしました。
そしてみんなで泣きました…
14年前のボクの写真は、きっと精一杯おどけているんだと思います。
そして、迫力は確かにあったかもしれません (^^;
by なかちゃん (2014-03-28 10:39)
なかちゃん^^カッコ良い!!
by ami (2014-04-04 10:09)
時間が経ったからこそ、より強まる思いや、切なさがあるのかもしれません。思い出したい時に存分に思い出すことがその人への敬意につながると思います。
音が楽しいと実感させてくださったなんて、この上ない出会いだったんですね
by ちあこさん (2014-04-09 20:59)